自分の人生ってどうなるんだろう
僕は最初、東大の英文科にいたんだよね。僕が英語を話せるのは大学で勉強したから。勉強したらどんどん話せるようになるし、「これは面白いや」ってやっているうちにどんどん使えるようになっていった。それと、4年生の時に受けた「家族社会学」っていう授業が、非常に面白かったんだよね。「人がどんな風に結婚していくのか」「人はどうやって家族を作るのか」という授業だった。その中で「今はゲイの人も養子を迎えて子供を育てているんだ」っていう話を聞いたりしてね。それまで日本でイメージする家族像とはずいぶん違っていて、とっても新鮮だったよね。同性愛の人が子供育てることもあるんだって驚きだった。そもそも自分の将来の結婚や離婚、離婚したらどうなる、ということを考えることも、話題にする人さえ誰もいなかった。それで授業を聞いていたら「自分の人生ってどうなるんだろう」ってほんとうに思ったんだよね。大学3、4年生の21、22歳の頃って初めて「自分の人生について自分で考える年齢」だと思うのね。その時にそういう授業があるっていうことはとても重要だと思ったんだよね。僕もそういう勉強をしたいと思ったんだ。でも家族社会学っていうのは当時の日本では「家政学」の中に入っていたんだよね。「家族社会学」の講師の先生に僕がやりたいことは「Family Life Education」、日本では「性教育」の分野にあたるって聞いたんだよね。家庭科っていうのは技術を学ぶんじゃなくて「家庭を築く」ことを学ぶ学問だから、育児や結婚、性についても扱うって。それは「東大では教育学部の中で学べる」って聞いたから教育学部の大学院に入ったんだ。
僕は「性教育をやろう」って決めたんだけど、日本の詰め込み式教育じゃない、もっと生きる力に関係あるような「自分の人生から出発するような教育」が必要だと思っていた。「本人にとって意味のあることを教育に取り入れることが大切」だって気持ちだった。
セックスについてすごく学んでいった
東大の教育学部の雰囲気はすごく楽しかったよ。いつも大学院生同士で議論ばっかりしていてすごく面白かった。刺激的だったよね。でも性教育のことなんて誰も知らないんだよ。それに性教育を勉強するのにセックスのことも誰も知らない。それじゃあダメだと思って、まずはセックスのことを勉強しようと思って「日本性教育協会」に行ったのね。するとセミナーを勧められて受けたんだよね。次に「家族計画協会」っていうところを紹介されて、そこのセミナーを助産師さんたちと一緒に、無数に受けたんだよね。
だから僕は「受胎調節実地指導員養成講座」とか受けてるんだ(笑)。ペッサリーや避妊について指導する資格なんだけど、助産師さんしかもらえない資格なんだよね。だから資格そのものはもらえなかったんだけど。そういうことを学びたがる男の子なんて誰もいなかったから、どこ行っても可愛がられたね。
そんな感じでセックスについてすごく学んでいった。そういう分野の人たちをセクソロジスト(sexlogist)っていうんだけど、日本ではほとんど産婦人科医ぐらいしかセクソロジストになる人いなかったし、セクソロジー(sexlogy)という学問が日本の大学にあるわけじゃなかった。だから留学しなきゃいけないなと思ったんだよね。もともと英語が得意だったし。でも当時は円がめちゃくちゃ安かった。1ドル二百何円だったから、自費で留学なんてできるもんじゃなかったんだよね。それでフルブライト奨学金とかに応募して、合格して大学院の2年目にハワイに留学したんだよね。
面白かった!ほんとうに面白かった!
ミルトン・ダイアモンド先生ていう、日本でもよく知られていた先生のところに行くためにハワイ大学に留学したんだよね。彼は生物学の先生で、僕は生物学の修士号は取れないので、ソーシャルワークの修士号をとったんだよね。ソーシャルワークの分野には性にまつわる様々な問題もあるから。
最初の年は家族計画協会でインターンした。でもあんまり面白くなくて、2年目からは「カメハメハスクールス」っていうところのインターンをやった。イクステンションプログラムで地域に出かけいくんだけど、ハワイ系の先住民の子どもたちの出産率がすごく高いっていう現状があったのね。高校生で赤ちゃんを産む人がいっぱいいて。そういう人たちのサポート、「予防」じゃなくて「産んだ赤ちゃんの子育てのサポート」のインターンに2年間入った。
それが面白かった!ほんとうに面白かった!地域に出かけていって貧しい人たちと家族ぐるみで仲良くなって、学校の先生たちや地域のリソースとつないでいって。妊娠の予防について教えるんじゃなくて、子育てについてサポートする。今振り返ると、実はそれが世界の歴史の中でとっても重要なプロジェクトだったんだよね。
「赤ちゃんのときに支援をすることで、その子の生涯にわたるベネフィットが高まる」っていうことを証明した、歴史的なプロジェクトだったんだ。今は世界中でユニセフもユネスコも就学前の教育、つまり「ファミリーの子どもを育てる能力を高めることが、教育の成果を上げるために一番効果がある」っていうことを一生懸命訴えている。ユネスコがEarly Childhood Education、ユニセフがEarly Childhood Careっていう部分なんだけど、2000年くらいからの世界中の国際協力の潮流なんだよね。それの歴史的なプロジェクトにインターンで入ってたんだよね。
2003年から2005年にブラジルで、JICAの専門家としてユニセフやユネスコと組んでやったプロジェクトは、まさにEarly Childhood Careのプロジェクトだった。ハワイのインターンに参加したことで、僕は「コミュニティで貧しい人たちと接するソーシャルワーカーとしてのセクソロジスト」っていうのに目覚めたんだ。
それからハワイと東大の両方の修士論文を書いて両方いっぺんに卒業した。そのまま東大に戻って博士課程を勉強すればよかったんだけど、当時僕には「日本なんてつまんない」っていう気持ちが強かったんだよね。日本に帰ったら、それまでに勝ち得た「自分に正直な生き方」ができない気がしたんだよね。型にはまった世の中に戻るのはすごく嫌だと思った。ましてや就職なんて考えてなかった。
「どうしようかなあ」って思っていたら、南米に行けるっていうチャンスが出てきたんだよね。ガセイ南米研修基金っていうのに応募したら受かることができて、南米に行くことになったんだ。家族計画協会の人たちに紹介してもらったりして、中南米のいろんな国の家族計画協会と連絡を取って準備をしていったんだ。
そこから人生が始まった
それで南米に渡ったのが1988年のこと。最初に行ったブラジル・サンパウロの国際会議で、とても大きな出会いがあったんだ。会議の延長でフィールドビジットに連れて行ってもらったんだけど、その中の一つがモンチアズールだった。モンチアズールっていうのは、サンパウロにあるファベーラ(貧民街)の名前。そこではドイツ人のウテ・クレーマーという女性がはじめた住民協会が、シュタイナー教育をベースにしたコミュニティ活動を運営している。いろんな場所を視察したんだけど、最初からモンチアズールがダントツで魅力的だった。他のはつまんなかった。「偽善的で偉そうな白人のおばちゃんが喋ってるだけ」っていう印象で、モンチアズールはすごくいい感じだった。でもいい感じっていうのは体で感じるだけで、何がいいかはわからなかった。結局、国際会議が終わった後、もう一度モンチアズールを訪ねて、そのままそこに残って5年間ボランティアをした。そこから人生が始まったんだよね。
ほんとうに運命だと思う。だいたいモンチアズールに2回目に行くっていう理由も偶然だったんだよ。ひどい風邪をひいちゃって体力なくなって、予定していたアルゼンチンに行くバスに乗れないっていう状況になって。かといってゴホゴホ咳しながらホテルにいるのも馬鹿らしいから、モンチアズールくらいもう一回行こうかなと思って行った。それが理由だもんね。モンチアズールに数週間程度滞在したら旅を続けようと思ってたんだけど、下痢して体力に自信なくなってたところを、モンチアズールの人たちに親切に優しくしてもらっているうちに「もう他のところに行くは嫌だなあ」と思って、そのままずるずる甘えてたんだからね。
それでモンチアズールに滞在しながらいろいろやっている中で、ガセイの奨学金の期間を1年間だったのを半年伸ばしてもらって、結局1年半面倒見てもらった。その頃に「ほんの木」という出版社から本を出させてもらうことになったんだよね。ちょうどブラジル生活が2年経った頃に『耳をすまして聞いてごらん』を書き終えて、その本の出版のために日本に帰ったんだ。
そのまま日本へ帰国するつもりだったんだけど、本を出版するとき社長に「(モンチアズール創始者の)ウテさんを日本に呼んで講演会したい」って話をしたら、応援してくれることになって150万円くれたんだよね。それで本が出てから大学院の博士課程戻って半年がすぎた頃に、ウテさんを呼んで日本中を2ヶ月くらいかけて講演会しながら回ったんだ。
エイズ活動に情熱を燃やした
その講演先で日本ユネスコ協会連盟の人が声をかけてきてくれたのね。話している中で日本ユネスコ協会連盟がプロジェクトを申請して、僕がそれをブラジルでやるってことになって。ちょうどその頃、モンチアズールの「文化センター」を建て直すって話が出てきていた。でもブラジルが突然の財政危機に直面して、お金の価値がガタッと変わっちゃってお金が足りないっていう状況になっていて。それで結局、文化センターの立て直すためのお金と、僕がそれを監督するための1年間の滞在費を日本ユネスコ協会連盟が、郵政省のボランティア貯金に申請してお金を出してくれることになった。それがブラジル生活3年目にあたるんだよね。
そのあとも合計3年間は、日本ユネスコ協会連盟が面倒を見てくれた。次の年が「識字教育のマニュアル作成」、その次の年は「識字教育のマニュアルを普及させるためのセミナーの開催」っていう具合にプロジェクトを申請して。でもそれらは片手間の仕事で、ブラジル生活の5年間に自分がパッションを感じてやっていたのはエイズについての活動だった。
最初は、貧しい人たちの社会でエイズ知識の普及と、予防のためのコンドームのキャンペーンをしてたんだけど、なかなかうまくいかなかった。「エイズは恐い病気だよ」ということを強調すると差別偏見を助長するだけの結果になっちゃって、「でも、簡単には感染しないんだよ」ということを付け加えると、じゃあ問題ないじゃないか、ということになってしまう。そんな苦労をしているうちに、HIVの感染者たちとの出会いがあって、彼らと一緒にコミュニティを回るようになってからすべてがガラッと変わったんだ。感染者の人たちが、自分に限ってHIVに感染するなんてありえないと思っていたこと、感染を知って自殺を考えるようなショック、でもようやく落ち着いたときに生まれて初めて人生の一瞬一瞬が愛しいと思えたこと、残された時間をどれだけ大切に生きるかってことに目覚めたという話をしてくれるんだ。何回立ち会っても心の動かされるお話しだったんだよね。僕の仕事は、コミュニティの人たちが、HIV感染者と出会う機会を準備すること、そしてその出会いが心の通う出会いとなるように、アイスブレークやワークショップをていねいにやることだったんだ。
ブラジルのあちこちのファベーラでHIVの感染者たちとワークショップをやりながら、国際会議なんかで世界中のアクティビストと出会うと、今、エイズを通して世界の性の文化が変わりつつある、って、その現場に立ち会ってるんだ、って感じがして鳥肌がたつ思いがしたよ。いつまでも続けていたかったんだけど、日本ユネスコ協会連盟からは3年連続で支援してもらっていたから「これ以上は続けられない」って言われてしまった。 じゃあどうしようと思っていたら、日本でエイズ予防財団に「大学院生が月に25万円もら える」枠があるって聞いたのね。それで日本に3年間戻ってきたんだ。
エイズで8年、お産で9年、教育で10年
1993年の4月からエイズ予防財団で働いたんだよね。働いてるって言っても、自分で立ち上げた日本のブラジル人向けの活動だよね。それを3年間やって、エイズに対する僕の情熱のフェーズはブラジルでの5年間とあわせて8年間続いたことになるんだ。
そのあと1996年にブラジル北東部のブラジルに戻った。戻った先はセアラ州というところで、「お産」という新しいテーマに出会って、情熱を持って5年間やったんだよね。そのあと2年間日本に帰ってきたんだけど、その間もボリビアにお産のプロジェクトで行ったりして、なんだかんだ言ってお産のことをやっていた。それでまたブラジルにJICAで2003年から2年間ブラジルに戻ってお産だけじゃなくて、ハワイでやっていた「生まれてきてすぐの小さい赤ちゃんのケア」のことを含めたことをやったのね。だからお産のプロジェクトは9年間取り組んだんだ。
その次のフェーズが、2006年に日本に戻ってからのフェーズ。エイズに関しては治療薬が1997年にできて話が全然変わったので、僕の役割はあんまりないなって感じてきた。お産のことも日本に帰ってみると、お産の世界は排他的なんだよ。医者でもない、助産師でもない僕のような人間には出る幕がないんだよね。だけど日本に住んでいるブラジル人の女性からはしょっちゅう相談が来るから、その人たちとはいろんなことをやったんだけど、日本の社会一般に向けての活動はやらなかった。その代わり、2006年からは日本に住むブラジル人の子どもたちの教育の問題に取り組むようになって、今年で10年経つんだ。エイズで8年、お産で9年、教育で10年っていうフェーズでやってきたわけだね。
日本に住んでいるブラジル人の一番の懸案事項
東海大学で働き出したらすぐにブラジル政府からの連絡が来て、日本のブラジル学校の先生たちの教員養成講座のプロジェクトが始まったんだよね。東海大学の中では出しゃばらないようにしていたんだけど、ブラジル政府の意向とかを通訳しているうちにだんだんだんだん……(笑)。どういうプロジェクトかというと、日本に住んでいるブラジル人の子どもたちの教育の状況はとても悲惨なんだ。そういう中で公立学校ではブラジル人の子どもたちは「守られていない」っていう気持ちがすごく強いので、彼らは彼らで学校をつくっちゃって、そこでブラジルのまんま生きていこうとしていたんだよね。そういうブラジル学校は当時日本中に100校もあって、子どもが1万人も通っている。3人に一人のブラジル人の子どもは、ブラジル人学校に通っていたんだ。ところがブラジル学校はなんにも権利も保障されていないし、誰も守ってないのね。日本の中でのブラジル人学校の地位が「0」だった。
ブラジルから当時の大統領ルーラが日本に来たときに、「ブラジル人の子どもたちが公立学校で不幸です。ブラジル学校に行くと何も保証されていません。なんとかしてください」っていうのが、日本に住んでいるブラジル人の一番の懸案事項だったんだよ。ルーラは「わかった、なんとかしよう」っていってブラジルに帰った。お金がないとできないから、ブラジル銀行に金を出すように言ったんだよね。ブラジル銀行は日本に住むブラジル人の本国送金で大儲けしていたから、ブラジル銀行に「やれ」って言ってさ。そうしたらブラジル銀行の人が僕のところに相談に来たんだよ。
いろいろアイディアあったんだけど、結局、ブラジル学校を支援するためには、ブラジルの政府が「ブラジルの教育に見合った教育をしていますよ」ということを認証をすることが一番効果があったんだよ。そうすると日本政府は「インターナショナルスクールと同じ」として、大学進学資格だとかの地位を認めるから。ところがそれを認証しようとすると、そこで働いている先生たちが教員資格を持っていないから認証できない。それで最初にやるべきことは、「教員養成講座がいいね」ってことに行き着いたんだ。そして、そこで働いている先生たちのレベルをあげることと。それでそういうプロジェクトをホストする大学が必要だってなったから、「東海大学でやりますよ」っていったらすごく大喜びで、東海大学と組むことになったんだよね。文部科学省や国立大学からの支援っていうのはほとんどと言っていいほど何もなかったからね。
僕が日本に帰ってきたのが2006年で、その年の12月にブラジル政府の人が東海大学に訪問に来た。それから実際にプロジェクトが始まったのは2009年だから3年間くらい合意するまでの期間があったんだよね。それから5年間かけて200人くらいの人を卒業させたんだよね。ブラジル政府が3億円使ったからね、すごいよ。ブラジルからしたら、すごい誇りに思うようなプロジェクトでさ。200人の人たちの中にはブラジルに帰った人も、今は先生をしていない人もいる。でも50人くらいは日本におけるブラジル人のための教育活動のリーダーって言える重要な人たちが育ったからね。日本に住むブラジル人で、早稲田大学が日本にあることを知らない人はいても、東海大学を知らない人は少ないと思うよ(笑)。
Beijo Me Liga
プロジェクトを始めるにあたって2009年に入学試験をやるとき、300人の定員に対して500人以上のブラジル人が日本中からこのキャンパスに来たんだよね。その人たちは、子どもたちを連れてくるって言うんだよね。それで試験の間、家族の面倒を見るボランティアが必要だってことになったから、学生たちに声かけて手伝ってもらったんだ。その学生たちはスタディツアーで一度、ブラジルに行ったことのある子たちを中心に声をかけたんだよね。モンチアズールからウテさんを日本に呼ぶときも手伝ってもらったし、日本に住む外国籍の子どもたちと触れあう「マルチカルチャーキャンプ」っていうのも、その学生たちに任せたりしていたんだよね。その学生たちは、2010年には自分たちで「Beijo Me Liga」っていう団体をつくったんだよね。今も続く元気のいい団体。
いろんなブラジル学校の先生たちが教員養成講座の関連で大学にくるでしょう。そうしたら「Beijo Me Liga」の学生たちと仲良くなるよね。それで「今度キャンプやるよ」って誘うと、「じゃあ、うちの学校はバスで行くから!」とか言い出してさ。「一つの学校で50人も来たら満杯なんだけどな」って思ったけど「まあいいか」って感じでOKしていたら、そのうちそういう学校が2校になり3校になり、とうとう「マルチカルチャーキャンプ」じゃなくてブラジル人キャンプになっちゃった(笑)。
世界を動かす運動の一端
ブラジル行く前にハワイがあって、ハワイに行く理由には性教育がある。性教育を勉強しようと思ってハワイに行ったら、ハワイ系の先住民の貧しい人たちの教育に目覚めちゃって、そのあとブラジルに行ったときには最初からファベーラで、ハワイで勉強してたことを実践するようになったんだよね。
そしてエイズっていう世界的な社会運動に、モンチアズールっていうファベーラでローカルに関わって、それが面白かったね。モンチアズールで体験することが、世界で通用するんだもん。世界で言っている人たちのことがよく分かるんだもん。国際協力や国際ボランティア活動ってさ、ローカルな小さなコミュニティで自分がやっていることが、「世界を動かす運動の一端をなしている」っていう実感を味わえることが醍醐味なんだよね。ローカルなコミュニティで、そのコミュニティのことだけを解決しているんじゃないんだよね。なぜならそういうことをやっている人は世界中にいて、同じ問題が世界中にあるから。例えばアメリカとかタイとかでやっている人と話をしても、ツーカーで通じるんだよね。「あー、自分のやっていることは世界を動かしているんだな」って。実際は自分の仕事は数えるほどの人にしか影響を及ぼさないことをやっているんだけど、「これが世界を動かしているんだな」っていうことが分かるんだよね。エイズのときも、お産のときもそうだったし。今は多様な教育ができるようにっていうことをここ10年間やってきたけどさ、それはブラジル学校だけの問題じゃないってことがよくわかるよね。
授業ってミーティングをするんだな
大学の授業って、今、日本中の大学の先生が反省している時期だと思うんだよね。あの、本人だけがわかっている、学生たちには何も分からないで全員寝ている授業っていうのが、延々と続いてきたことは「無意味だった」って総括されるべきだと思うよ。僕は大学に入る前にそういうのを批判することをコミュニティでやってきたわけだから、大学入ったからってそういう一人でしゃべるような授業はしたくないと思ったよね。だから大学で働く直前にワークショップのやり方とか講習を受けたくらいでさ。いろんなアイデアを持ってやったんだよね。
僕はよく講演会とかするから、大学の先生をすることはそんなに怖くなかった。でも90分間濃い話をする自信はあるけど、それを毎日やり続けられる人なんていないでしょ?って思ったのね。毎回の講演会でいい講演会できたって思っても、毎日、1年間続けて違うネタで話せる人っていないと思ったの。それでどうするんだろうって思ったんだよね。そのときにハッて気づいたのが「ミーティングだ!」ってことだったんだよね。
モンチアズールにいたころ、8~9人いたボランティアの子たちと週に1回ボランティアミーティングをするんだ。それを思い出して「授業ってミーティングをするのと同じだよな」って思ったのね。授業っていうのは、講演会をするのではなくて、学生とミーティングするってことなんだって考えたんだよ。それがよかったから、結果として大学から賞をもらったりしたんだと思う。Teaching Awardっていう賞を立て続けにもらったんだけどさ。学生に一人で一方的に話すんじゃなくて、ミーティングをするんだっていうことがわかったんだよね。
スタディツアーは結構パワフルだよ。授業をどんなに工夫しても授業中にはああいう体験はできない。身体が行かないから。ブラジル行って「におい」をかいだ瞬間に、すべて変わるからね。においもかいだこともないブラジルのことを理解できるとは思えないもん。
2009年のときにね、三日間だけアラミタンっていうNGOに入ったんだよね。当時のアラミタンっていうのは、世界中から集まった若者たちが共同作業をしながらコミュニティーセンターを建てていて、あちこちの部屋で雑魚寝してた場所なんだけどさ、その三日間のアラミタンで大勢の人の人生が変わったんだよ。すごい体験になっちゃうんだ。一週間でもないんだよ。「たったの三日間で、あれだけ変わるんだ」って思ったよ。
日本から、どこにでもいそうなきれいな服を着た学生たちが10数人、20何時間かけてブラジル着いて、そこからバスでド田舎まで連れて行かれて、それがまだ午前中。まずはアクティビティからはじめて、それから1日中働いて、夜は踊って。ところが断水になっちゃって「シャワーもトイレも使えない」ってことになっちゃった。それで汚いまま寝て。今思えばそんなこと、よくできたもんだよね。最初から「そういうことが待ってるよ」って言ったら、「それ楽しみ!」って思う人いないと思うんだけど、そこからはじまっていくんだよね。それがめちゃくちゃ良かったんだよね。
みんなで補い合って開花していく
「留学とか型にはまった海外体験じゃなくて、一人で知らないとこ行って、スラムでも入って、自分で道を切り開いてボランティアでもやりなよ」って、学生に対して思うことは思うよ。でもそんなことできる人って滅多にいないし、やったら大失敗することも容易に想像がつくんだよね。僕は昔ブラジルでボランティアを受け入れていたころは、そういう突き放した態度だったのね。「自分で体験しなきゃだめだろう」って思っていたから。
だけどこの10年くらいでさ、そういう突き放すのをやめたんだよね。一緒にやるっていうことの良さがあるわけだよ。一人で生き抜く人を育てるよりも、お互いが支え合って、一生続いていくような人間関係をつくったり、重要なネットワークをつくるような育て方もあるよな、って今は思ってるんだよね。
学生とブラジルにスタディツアーに行くと、みんな甘えてるなと思うよ。一人一人じゃ大したことはできない。でも10人くらいの日本人が行って、そのときの興奮状態が現地の人たちに伝わっていくんだよね。コミュニティにとっては、一人の人間が来て淡々と仕事をしてくれるのとは全然違う、華やいだ、ハイな状態が生まれるんだよね。だから行く先々でみんなほんとうに「ありがとう」って感じてくれるわけ。「日本の人たちがここまで来てくれた。たった数日だったけど生涯忘れられないくらい楽しかった!」って思ってくれるんだよね。ある人数が集まって、その良い関係が生涯続くような関係を作るっていうやり方で、よかったなって思うよね。そういう意味じゃ、最近は考え方ガラッと変わったよね。
僕自身は一人でポンッとどこにだって入っていったよ。一人だったから頑張ったって思っているし、言葉を覚えるのだってその方がぜったい早いと思っていたしね。でも学生たちを見ていると、もちろん一人一人のポテンシャルはあったかもしれないけど、みんなで補い合って開花していく感じが見てとれるんだよね。