田辺 圭一

Tanabe Keiichi
准教授 国際関係学修士
田辺 圭一
Tanabe Keiichi
准教授 国際関係学修士

インド人の転校生

生まれは東海大学相模高校の近く、神奈川県の東林間というところです。小学校2年生から5年生の4年間は大阪の茨木市という、京都寄りのところで過ごしました。

近所にJICAの研修所があったんです。発展途上国から日本に研修に来る人たちを泊める宿舎になっていて、他には会議室とか展示室とかもある施設でした。その近くに公園があって、発展途上国から研修に来ている人たちがその施設から遊びに来るんですよ。いろんな人種がいました。友達の中には彼らを怖がってしまう人たちもいましたが、僕はその人たちと一緒に遊ぶのが楽しくてね。その公園で地区の運動会があったときには一緒に二人三脚で出場したりしましたよ。

3年生になったときにインド人の転校生が自分のクラスに入ってきたんです。国籍はアメリカなんですけど、お父さんがアメリカの大学で先生をしていて、サバティカルで1年間大阪大学に来ていたみたいです。

言葉が通じないこともあって、その転校生と誰も遊んであげないんですよ。そんな中で僕を含めて3人くらいは一緒に遊んでいました。その時は、「かわいそうだから遊んであげよう」という気持ちじゃなくて、楽しくてしょうがないから遊んでいたんですよね。もちろん僕も英語なんか話せないし、相手も日本語が話せないんです。でも「何時にどこで遊ぼう」みたいなことを決めていたんですからね、不思議ですよね。

ある日、何かで彼がいじめられていて、泣いていたんですよ。それを見て「僕らと同じなんだ。いじめられて泣くんだ……」って思ったことがあったんですよね。人種は違うんだけど、同じなんだ……って。

根本的なところから学びたい

いま思えば、当時から国が違う人に対しても、僕は異文化と接することへのハードルが低かったのかなと思います。興味があったというか。しかもそれがアメリカ人やイギリス人という先進国の人たちではなくて、アフリカやアジアの発展途上国の人たちだったんですよね。そういう意味でその頃の体験がいまに繋がっているのかなと思います。とは言え、その頃は将来の仕事のこととか考えてはいませんでした。確か電車の運転手、そしてプロ野球選手になりたかったと思います。大して野球がうまかったわけでもないんですけどね。僕は体ががっちりしている方ですが、それは母方が柔道家の家系だからかもしれません。祖父は明治生まれですが180cmくらいありました。海軍で相撲をやっていたらしいんですが、東京に出てきて相撲から柔道に変えて講道館の師範になったそうです。祖父は柔道八段で、自分で道場を構えました。それを母の兄が継いでいます。

僕は早稲田大学政治経済学部政治学科に進学し、政治思想史を専攻しました。僕は行政学のような実学的なことよりも、根本的なことに興味を持つ傾向があるようです。専門ゼミではソクラテスからやりました。と言っても「生きるとは何か」みたいなことを考えるのではなく、「どういう風に人類が思想を紡いできたか」というような、人類の営みを辿ることに関心を持ちました。学部ですから専門家としてやったわけではないんですが、専攻を選ぶ基準に根源的なものへの興味があったんだと思うんですよね。だから国際政治を考える際も、例えば「いまの日米関係は」って考えるよりもまずは「国家とは何か」というようなところに関心が向かいます。

2日目ですでにニューヨーカー

大学3年生の夏に1ヶ月、ニューヨークでホームステイしながら語学留学しました。着いた翌日に街を歩いていたら、白人の初老のおばさんに道を尋ねられたんですよね。驚きました。その時、自分はどう見ても「外国人」にしか見えないと思っていたんです。仮に日本で道がわからなくて困っている時に、明らかに外国人と思える人には道を聞かないですよね。でも質問して来たってことは、そのおばさんにとって僕は「ニューヨーカー」だったってこと。それで「自分はここでは外国人ではないんだ」って思いました。じゃあ僕のこれまで持っていた「外国人」の区分けって何なんだろう、って。一歩外に出ることで、それまで自分の知っていた世界とは違うことを直に体験することができた。これは楽しいって思いましたね。

アメリカに行く前年には台湾や韓国に行ったんです。それが初めての海外体験でしたけど、人々の外見や食べ物など文化的にも似ているし、そんなにショックはなかった。でもアメリカでは2日目でショックを受けましたね。「僕はもう2日目ですでにニューヨーカーなんだな」って変な感覚だな、と。それまでの自分の限られた世界観から、ちょっとずつ壁が取り払われるというか。

大学を卒業したのち、国連職員を目指してニューヨークにあるコロンビア大学国際公共政策大学院に留学しました。国際関係の実務家を養成する学校で、政治経済開発(Economic and Political Development)を専攻しました。国連などの国際機関で働くことを目指す人が多い学校です。学部の時のたかだか1ヶ月の語学留学とは違って長期間住むようになると、さらに自分になかったものに出会う日々を過ごすことになり世界が広がっていく気がしました。

変なところにこだわらない

アメリカというよりもニューヨークだからこその経験だと思います。アメリカの保守層は主に中央部にいて、西海岸や東海岸はリベラルなんです。そういう土地柄もあると思うんですが、自分のなかの壁が取り払われていく経験が多々ありました。例えば入学オリエンテーションのときに、先輩学生による学生生活の指南やサークルの紹介などがあったんですね。チェスクラブとかサイクリングクラブとかの次にゲイクラブが紹介されたんです。びっくりしましたね。そのならびでくるかと。まだ1990年代後半のことです。当時はまだいまほどLGBTという概念が行きわたっていなかった頃でしたから。その時にも自分がすごく狭い世界に生きてるんだな、と思いました。そういう経験がショックであり面白かったですね。

そのすぐ後に大学院での専攻別にリトリートで教授も一緒に行く機会がありました。「リトリート」って例えば企業などでも、普段の会議室などではいい意見がでないから箱根一泊など、あえて場所を移すなどして会議を行ったりするものです。

僕は「教授と一緒に旅行かあ」と思って緊張していました。でも周囲を見ていると教授とフリスビーを始めたりして。「え?教授とフリスビーするの?」って驚きました。それが新学期の始まる直前の週末だったんですが、授業が始まると、先生が前で話していると学生が教授に対して、「Hey, Eric!」みたいな感じでファーストネームで呼びかけるんですよね。先生をファーストネームで呼ぶというのは驚きでした。勉強で何を学んだかというよりも、そういう体験がショックでしたね。また別の先生は授業に飼い犬の大きなゴールデンレトリバーを連れてくるんですよ。きちんとしつけられていて授業中はちゃんと静かにしていましたけど。それまでの自分にとっては非日常的な日常でした。

そういうのを見ていると「これがアメリカの強さなのかな」とも思いましたね。アメリカのみならず世界中から優秀な人が集まるところでのロジックや雰囲気を知り、また感じることができました。変なところにこだわらないというか。日本では「こうあるべき」というのを忠実にこなしてきていたように思いますけれど、ここでは違うんだ、ということを強烈に意識しました。

「違う面白さ」と「共有している面白さ」

ある夜、呑んでいて遅くなってしまい、タクシーに乗って行き先を告げると運転手が「分からない」っていうんですよね。ニューヨークって京都みたいに碁盤の目になっていて場所の把握は簡単なんですよ。それなのに「道を教えてくれ」って言うんです。不思議に思って話を聞いていると、その運転手が「先週、ニューヨークに来たばかりだから」って言うんです。国名は忘れましたがアフリカの人でした。前の週に初めてニューヨークに来た人が、その翌週にはタクシードライバーをやっているっていうのが驚きでね(笑)。自分が勝手に「世界はこうなっている」って思い込んでいるものが、「全く違うんだ」っていう実体験を積み重ねていく感覚でした。

クラスメイトもいろんな人が来ていますから、バックグラウンドもぜんぜん違うんです。でもみんな同じようなところで苦しんだり、そういう共通体験も増えていきました。「違う面白さ」と「共有している面白さ」の体感。そういうことを肌で感じながら、大学院での生活は過ぎていきました。そのときの感覚をもっと広げていきたいっていうのが根っこにあって、仕事でも僻地に赴任したりするようになりました。

だからこういう体験を学生にもして欲しいなと思いますね。インターネットで得られる情報とは違いますから。学生に伝えていきたいのは、一歩踏み出して世界の現実と肌を触れ合わせていく、そうすると自分の中の壁が崩れていくし、自分の世界観が広がっていく。そういうのを実践していってもらいたいと強く思います。

紆余曲折の人生

大学院卒業後は紆余曲折でした。大学院で同じ専攻の人たちは卒業後、国連に行く人が多かったので自分もそうなるだろうと思っていたんですよね。ところが国連の試験に落ちてしまったんです。それが予想外で、どうしよう……って途方にくれました。結果的にはM&A(企業買収)や投資採算分析などを行う外資系のコンサルタント会社に入りました。コロンビア大学ではビジネス系の授業もとっていましたから、少しは勉強していてこんな世界もあるんだなと面白いとは思っていましたけれど、まさかそんなことを自分がやることになろうとは想定していませんでした。

最初、ニューヨークで就職して1年過ぎた後、東京に帰って5年ほど働きました。専門的で難しい分野で苦労しました。世の中の厳しさや数字の怖さを実感しました。思っていた分野とは違うけれども、結果的には良い経験になりましたね。36、7歳くらいまで働いていたんですが、「このまま続けていっていいのかな」って思うようになったんです。その仕事を50歳とか60歳まで続けていくっていうことはイメージできなかった。仕事はダイナミックで面白かったけど、「自分の天職はこれではない」という思いがどこかであって。もう一度受け直して合格することができました。それで会社を辞めることにしました。

ミャンマー・ローマ・アフガニスタン・南スーダン

国連に入って最初の任務地はミャンマーでした。首都ではなく地方勤務を希望して行きました。というのも首都のメインオフィスにいたら、パソコンに向かって仕事して、ミーティングに出席して、レポート書いて、っていう感じで終わってしまう。それでは東京のオフィスにいるのと変わらないでしょう。

タイやラオスと跨る山岳地帯に麻薬のゴールデン・トライアングルというのがあるんです。コミュニティー開発などの支援を通して麻薬栽培の撲滅をサポートしていくプロジェクトでした。その地域に住んで勤務していました。このような分野にもコンサルタント時代に学ばせてもらった「どういう投入があって、どういうインパクトがあって、なぜそれが言えるのか」っていうことをなるべく数字で示していくアプローチを応用して取り組んでいました。

国連の人って思いは強く専門性のある人も多いのですが、自分の分野に入れ込みすぎちゃっているところがあるんです。でもお金を出す側、例えば日本政府であるとか、の立場にあったフレームワークで話さないと相手に伝わらないということがよくあります。人に何かを説明するときには、どれだけアツく語っても「なににいくらかかるんだ」とか「どういうインパクトを生むのか」っていうことを具現化したもので説明して説得していかないと「お金」って出てこないんですよね。物事が進んでいくステップに無頓着で「自分は良いことをしているんだから、あなたは協力してしかるべきだ」というようになってしまうとなかなか進んでいきません。

そういう意味でコンサルタント時代に念頭においていた「この言説が利害の一致しない相手を説得し得るロジックか」という考え方が活きた気がします。いま思えば、ですけどね。

とは言え、強い思いというものも、何かを突破するときには必要だったりもするんです。教条的なぐらいに思いを言い続けることで初めて動く、ということもありますからね。ですから組織としてはいろんな人がいることで、うまい具合にバランスが取れるんです。

国連には7年くらいいました。ミャンマーに丸2年いた後は、その機関の本部があるローマに赴任しました。主要な拠出国の一つである日本政府の窓口である在ローマ日本大使館との調整業務が主な仕事でした。それからPKO(Peace Keeping Operation)という組織に移りました。紛争地域が対象で、僕はアフガニスタンと南スーダンで勤務しました。

1,600km歩きました

僕が国連を離れて、東海大学に来るまでに3年あいだが空いています。その間にまず、15年前くらいから絶対に成し遂げたいと思っていたことがあったので、それを実行することにしました。それはフランスからスペインまで「巡礼の道」を歩くことでした。

キリスト教の3大聖地としてよく知られているのはエルサレムとローマですが、もう一つ、スペインの西の端にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラという町があります。そこは割と大きい町なんですけど、そこにいく巡礼が記録上、西暦951年から始まっているんです。初めて行ったのは2014年で、僕はこれまでに2回歩いています。江戸時代のお伊勢参りみたいな感じで、ルートがいくつもあるんですね。1回目やった時はフランスの南西部にあるルピュイ・アンヴレーというところからはじめて、全部で1,600km歩きました。2ヶ月かかりましたね。大勢歩いている人がいますから道中で知り合いもできます。

初めて行った2014年の、さらに15年前、僕がアメリカに留学していた頃にこの「巡礼の道」のことを知りました。はじめは「行きたいな」くらいの気持ちだったものが、年月が経つうちにいつしか「行かなきゃいけない」っていう気持ちに変わっていったんです。なぜかはわかりません。でもなかなか行く機会がありませんでした。

ほとんどの場合、最初から最後まで1,600km歩く人は少ないんです。だって2ヶ月も時間取れる人は多くありませんから。最後の100kmを歩くと証明書をもらえるので、それをやる人が一番多い。あとはフランスとスペインの国境のところからやると800kmなんです。それをやる人も多い。僕はなぜかフランスのここからやらないとダメだ、と思ったんです。僕はクリスチャンでもなんでもないんですけど。

先人たちの思いを辿りたい、っていう思いが強いんです。これは僕が専攻した政治思想史などへの興味と重なるところがあるかもしれません。中世の頃って、いまより巡礼路は整備されていないし、安全面も問題があったと思います。行き倒れる人や動物に襲われることもあったでしょう。当時スペインはイスラムの支配下ですから命懸けだったはずなんです。そんな状況であることを知りながらも歩いてきたわけです。いままさに僕が歩いている道を、「人々はどんな思いで1,000年前から歩いてきたんだろう」って思いながら歩きました。

ずーっと歩いていると、自分の知らないことに多く出会うんですよね。それは初めてニューヨークに行って感じたものと近いと思います。道自体も世界遺産になっています。ヨーロッパ人にとって、江戸時代の日本人にとってのお伊勢参りのように、サンティアゴ・デ・コンポステーラは死ぬ前に一度は訪れたい場所なんだそうです。

いろんな人生を垣間見る

歩いていると何度も会う人が結構いるんです。ある時、初老のスペイン人のご夫婦で手を繋ぎながら歩いているのを見たんです。その時はこんな年になっても仲睦まじいなと思っただけなんですが、いつ会っても手を繋いでいるんです。それで、もしかしてと思って見ていると、旦那さんが目が見えなかったんですね。その時に「この二人をここまでつき動かすものって何だろう……」って改めて思いました。もちろん1,000年前に思いを馳せるのもいいんですが、同じこの時代にいろんな思いで生きている人たちがいるんだなと思いましたね。

また別のときには乳母車に3歳と4歳の子を乗せて押しながら歩いているお母さんに出会ったんです。フィンランドの人です。旦那さんは目が見えなくて盲導犬と一緒に歩いていました。そのときも何がそこまで駆り立てるんだろうって思いましたね。他にもスウェーデンの若い女の子が歩いていて、話を聞くと前年にお父さんが亡くなったことに深く落ち込んでいてそれに区切りをつけるために歩いていたり。いろんな人たちに出会いました。

リリーフランキーの『東京タワー』に好きな一節があります。それは、お母さんが亡くなった場面で「僕のために自分の人生を生きてくれたオカンが死んだ」と言って、呆然としながら交差点を渡っていたときに「すれ違うこの人たち、名前も知らないし、二度と会うこともない人たち。この人たちも自分と同じような経験をしているんだ、と思うとすごく愛おしく思えてきた」っていうことが書いているんですが、そのことを思い出しましたね。みんなそれぞれいろんな思いがあって……って思いを馳せることで、また自分の中の壁が低くなっていく気がしましたね。こだわりが少なくなっていく感じです。自分を相対化することを肌感覚で感じられて、自分自身、戸惑いがありつつも快感というか。

2回目は1,400km歩きました

1度目の巡礼を終えてから、アメリカの公認会計士の資格試験を勉強しました。コンサルタント時代にもちょっと勉強していたのですが忙し過ぎて断念し、国連に入ってからは「もう不要かな」と思って諦めていたことでした。ずっと南スーダンやアフガンといった現場の最前線にいて現場のオペレーションをやっていましたので、現場は随分経験させてもらえたと思っています。元は数字を詰めていくコンサルティングをやっていたので、もっと本部に近いところにいって全体を見渡すような予算の作成とか、そういう仕事に就こうと思ったんですね。一度断念したっていう悔しさもあったし、次のステップとして国連は官僚機構ですから確固たる資格があると強いかなと思ったんです。それでもう一度取り組もうと決めました。

無事資格を取ることができ、その後、ある国連機関のパリ本部でのポジションに応募した際に最終面接で落ちたんですね。それもちょっとした挫折でした。それで時間ができたので、リセットするため今度は巡礼の道を違うルートで歩こうと思って、また来たんです。2回目は1,400km歩きました。それが2016年ですね。

時間ができたっていうこともありましたが、1回目は15年来の思いの末でしたので、少し肩に力が入っていたんです。つまり1,600km歩き通してサンティアゴ・デ・コンポステーラに到着したい、それだけが目的でした。だから途中経過を重視していなかった。辿り着けなかったときの怖さがあったんです。

でも一度達成したので、仮に病気や怪我で途中リタイアすることになったとしても「今日ここであなたと出会って話をしていることで自分が今ここにいる目的は達成できたんだ」と思う感覚を得たかったんですね。だからわざと寄り道したりとか、まだ歩けるけれども早く切り上げて呑みに行ったりとか、あえて自分から人に声をかけるようにしたりしました。

人に興味を持つ余裕

1回目に歩いていて自分でもびっくりしたことは人の写真が少なかったことです。景色ばかりでした。1回目に歩いているときに出会ったデンマーク人のおばさんが人とのコミュニケーションが上手で、話が盛り上がって道中で撮った写真を見せてもらったら出会った人たちの写真が多かったんですよ。そしてそれぞれの人たちのエピソードを聞かせてくれたんです。それで僕は周りの人に興味を持つ余裕がなかったんだっていうことに気づいたんです。

日本人の生真面目さで目的に一直線というか。おばさんみたいに周りに目を配る余裕がありませんでした。もちろんサンティアゴ・デ・コンポステーラには着きたいけれど「あなたと出会うことが私の目的でもある」という感じですよね。

それまでの自分の人生を象徴しているな、と思ったんですよね。〇〇を達成するためにいまこれを犠牲にして、それを達成したらまた次の目標が出てくる。今ここ、この瞬間を味わうっていう考えが少なかったんですよね。だから2回目はあえてそれを意識して、自分からできるだけ声をかけたし、出会った人たちに関わっていきました。2回目とはいえルートは違うので景色は違うし面白いんですけど、景色だけを楽しむのではない方法で歩きたいと思ったんです。

個別の経験を普遍化する

2017年度から東海大学に所属しています。

これまでにいろんな経験はして来ましたけど、ふと振り返って考えてみると自分の「個別の経験」に安住してしまって、そこから出ていないっていう感覚を持っていたんです。ですから大学という場で研究をしながら学生と共有するということを通して、個別から普遍につなげていければな、と思っています。

自分が経験したことを、例えば「アフガンに行けばわかるよ」と言ったところで、そうそう行ける場所でもありません。そしてその場がなぜ現状のようになったのか、その背景は何なのかといったような、実際に自分が見てきたことを普遍的なものとして共有していくことができたら、それは価値があることなのかなと思い始めました。いろんな現場で見させてもらったことを共有財産として普遍的なものにしていく、という感覚ですね。それだったら、大学教員という機会をいただけるなら良い機会だなと思いました。

現場の最前線にいて、無力感にも随分苛まれてきました。「自分では(この現状を)変えられない」という無力感。とはいえそこで何年もいるわけだから、ほんのちょっとでも居た甲斐があるようにと思って頑張っていました。でも「自分が頑張るだけでは変わらない」という感覚はありましたから、それをより多くの人が共有しないと解決できない、でもそれを体系的に考えるほどの余裕はない……。そんな日々でした。

僕が強く思ったのが「自分で自分の人生を決められない人たちがいるんだ」っていうこと。自分の場合は紆余曲折があっても好き勝手に、自分で決めてやってました。日本人の多くがそうだと思います。でもそうじゃない人たちが、実際、自分の目の前にいて。これは見過ごせないな、と思って、自分一人では無理なんだったら共有しないと力になっていけない、という思いはミャンマーにいた頃からありましたね。

ミャンマーに着任して1週間くらい経った頃に忘れられない経験をしました。確か15歳だったかな、ある女の子と出会ったんです。お母さんがずっと病気で寝込んでいて、お父さんが目が見えなくて、弟に知的障害がありました。そのため15歳の女の子に家のすべてがのしかかってくるんですよ。その子も現実を受け止めきれない感じで、最後に笑ったのはいつなんだろうっていう表情が変わることはありませんでした。感情がないんです。支援の対象として食料を無料で提供したりしていましたけど「自分はこの子一人救えないんだ……」って痛感しました。食料を提供することで餓死することはないようにできても、その子の人生は変えられません。こんな圧倒的な現実があるんだって、赴任した最初の時期で突きつけられました。世界にはそういう境遇の子が大勢いるんですよね。

少なくともその時関わった当事者になった以上、「やっぱり何かやらなきゃ」っていう思いは誰しも自然に湧いてくる感情だと思います。僕は見てしまった者の責任というのがあるのではないかと思っています。だからこそ共有していかなきゃいけないという思いは強いですね。

オリジナリティの高い人生

授業としては必修科目の他に、春学期に「人間の安全保障」という授業を担当しています。人間の安全保障という概念は、冷戦終結期までは安全保障が国家を中心に考えられていたのに対し、1990年代に入って国家の中にいる一人一人の安全保障に焦点を当てた考え方です。秋学期には国際開発論という途上国の開発に関する授業を担当しています。

私は主に「平和構築」という分野に取り組んでいます。和平合意等によって一旦紛争が終結しても再発リスクが高いため、いかに持続的な平和を構築していくっていう分野です

東海大学は大きいので、大きい視点で見ることができる気がします。同じキャンパスに文学部の学生からみたらまったく異なる、人工知能や原子力、航空操縦を勉強している学生たちがいます。そこまで多様に抱えている学校はそうそうないですよね。

1年生の授業で、まったく学科の異なる学生が一緒に学ぶ授業を担当しています。理工学部の学生とかと健康学部などの学生が混ざっている教室で、海外事情の授業をやるんです。それは東海大学のような大きい大学の強みだし、意義ある取り組みだと思います。

自分が味わってきた、自分の中にある壁が壊れていく戸惑いと快感というかな、それは何もニューヨークに行かなくたって、教室の中で経験することは可能だし、自分がそれをファシリテートできれば学生も「今日は面白かったな」と思って帰れると思うんですよね。

学生には自分の性格を知った上でオリジナリティの高い人生を送ってほしいと思っています。そのために「仕事」は大きな要素を占めるので、心地よく思えて、自分に向いたこと、明日死ぬかもしれないってそれでもやりたいと思っていることを選んで欲しい。

Appleの創設者であるスティーブ・ジョブスの有名なスタンフォード大学の卒業式での講演に、「明日死ぬとしたら、いまやっている仕事を続けているか」という話が出てきます。人生は有限ですから、そういう自分への問いかけも意味があることだなと思います。

良くも悪くもこだわりは少しずつ減ってきていて、「こうあるべき」という思いはないんですよね。これまでの自分を振り返ってみると、結局のところ気がつくとこんなことになっているな、という感じです。そんななかで、東海大学にご縁があってお世話になっているのも、そうなるべくしてなっているのかもしれません。

大学院を出てからは国連に就職して安定して仕事をしていきたいと思っていたんです。自分としていろんなことをやってやろうと思っていたわけじゃなくて、結果的にこうなっているわけですよね。でも、そうなるべくしてなっているっていうのはある気がします。40年くらい一か所にとどまって9時5時で働くっていうのは肌に合わないという感覚があったんでしょうね。スペインを歩くというのも、自分としてはものすごく自然なことでした。

でも多くの友人からは不自然だったようですね。「なんでそんなことするの?」「何になるの?」「疲れるでしょう?」って言われましたもんね(笑)。でも僕はそれ(巡礼)をやらないと死んでも死にきれないって思ったんです。

日本に帰ってきて、親しい友人と一杯呑んだときに、「いまどんな気持ち?」って聞かれたときに、「これで死ねる」ってポロって言っていたんですよね。自分でもこんなこと言うんだって驚きましたけれど。1回目歩き終わったときに、嬉しいっていう感情よりもほっとしたんですね。それこそ肩の荷が下りた感じです。仮に今後何かあってもあんまり後悔の念は残らないっていう感覚があります。スティブ・ジョブスが言うように、もし明日死ぬとしたらという視点があると、日々の生を充足させることができるのではないでしょうか。

必然・必要・ベスト

もし(巡礼を)思い立った15年前の翌年にできていたら、きっとそこまでの思いはなかったと思うんです。だからあえて神様は15年くらいさせなかったのではないかとさえ感じます。その間に自分で、はじめは「行きたい」とだけ思っていたものが、「行かなきゃいけない。そうしないと人生が始まらない」くらいに思いつめることになったんだと思います。

いろんな積み重ねをしてきたと思います。その都度落胆したり紆余曲折がありましたけど、いまあるのが自分にとって、そうなるべくしてそうなっているって思えるようになりました。いまある自分は、自分にとって「必然・必要・ベスト」っていう感覚です。これは船井幸雄先生という方の言葉です。以前、思うように事が運ばないときに読んだ本にあった言葉です。最初に読んでからもう25年以上経ちましたが、いまになってそう思えるようになってきました。

ふと、人が愛おしくなる

学生には感動を持ってもらいたい。「感動する」って日本語だと能動態ですけど、英語だと「I’m moved」って受動態なんですよね。だから感動させられるって言葉。それはそういうレセプターが人間にはあり、人間は人間との関わりの中でしか生きられないということだと思います。仮に一人で無人島で育ったら自我って芽生えないんじゃないかな。自我って関係性でしか芽生えないものじゃないでしょうか。でも同時に人間にとっての一番の苦しみって、人間関係だと思うんです。良くも悪くも人間関係が人生と言ってもいいんじゃないかなと思います。

いろんな思いを持って生きている人がいることをまだまだ実感していきたいし伝えられればな、と思います。こんな世界があるんだ、って。一歩踏み出して世界の現実と触れていると、ふと、人が愛おしくなる瞬間があります。自分の感受性が鈍っていると鬱陶しいことの方が多くなってしまうんですけれど。巡礼の道で出会った、目の見えない夫と手を繋いで800km歩いている夫婦とか、きっと何十年も前から二人で話していたのかもしれないなと思うんです。「いつか一緒に行こうね」って。そしてついにその時が来て歩いていたんだと思うんです。フィンランド人の家族も、盲導犬を連れてまで歩くんですよ。そういう人間のすごさに触れてもまた日常に忙殺されていくんだけれど、そういうのに触れたことを肌感覚で持っていると、脳が記憶している感覚があるんですね。そのことをふと思い出す瞬間があると、今ある自分を相対化できる感じがします。

絶妙なタイミング

自分を超えた存在っていう視点が大事だと思っています。それは仏でも神でもご先祖様でもいい。そういうのがあると「こんなに気張ったところでしょうがないな」と思えたりすると思います。あまりに「自分」にばかり固執すると、自分の思うように出来事が立ちゆかないときの苦しさがあると思うんです。1600km歩いているといろんなことがあるんですよね。「あの時、あの人が助けてくれなかったら大変なことになっていたな」とか、絶妙なタイミングでそういうのがあるんです。自分が見えないところから見守られている感覚です。

スペインを歩いているときに、ある晩、宿で僕はチーズを切ろうとしたら指をかなり深くグサッと切ってしまったことがあるんです。その時たまたま一緒にいた70歳を過ぎたオランダ人がスペイン語ができたので、迅速に必要な措置を取ってくれて助けられました。その人とは道中何度か会うんですけど、別に泊まるところを示し合わせているわけでもないし、その時たまたま一緒だったんです。だけどその人が横にいてくれたおかげで、すぐに病院に連れて行ってもらって縫ってもらうことができて助かった経験があります。あのとき、すぐに処置しなかったら面倒なことになっていたところでした。僕一人だったら、そこまで適切な対応はできなかったことは分かっているので。

他にもご飯を食べられるところが見つけられずちょうど食料も持ち合わせておらずどうしようか途方に暮れていたときに、たまたま通りかかったフランス人の初老のご夫婦が食事を恵んでくれたりね。いろんなことが絶妙なタイミングで起こるんですよね。ちなみに、これらの方々とはその後も折に触れて連絡を取り合っていて、この前ヨーロッパに行った際に、それぞれオランダとフランスで泊めていただき旧交を温めてきました。純度の高い時間でした。

「何がいらんものかよく分かるね」

歩いているといろんなことに、メタファー(暗喩)って言うんでしょうか、人生を象徴しているなと感じたことがあります。

巡礼の道にはずっと「矢印」があるんです。でもそれはフランス内とかでは、木にペンキを塗って書いてあるだけだったりするので、時間の経過で消え掛かっていたり、印はあるんだけれども葉が覆い茂っていて見えなくなっていたりします。すると自分の気持ちがイライラしているときなんかは見落としてしまったりして、違う方向に行っていたりするっていうことがあるんです。それは「道に迷った」というよくある出来事なんだけれども、冷静になって道を戻っていると「ここにあるじゃないか」ってすぐに印を発見できたりします。

人生においても何かに怒っていたり、落ち込んでいたりするときに、そういう「指し示すもの」があるのに冷静さを失っているために見落としてしまっていることってありますよね。また、不要なものを持っていると、それが重荷になってくるんじゃないかなということも実感しました。

イギリス人が書いた定評のある巡礼のガイドブックがあるんですけど、本の最初の方に「荷物の準備の項」っていうのがあって、そこにはこう書かれています。

「あなたはいま、準備をしているでしょう。必要以上に持って行こうとしていませんか?これまでのあなたの人生もそうだったんじゃないですか?必要のないものを持って行こうとするから、重かったんでしょう?荷物だけでなくて感情も余計なものを持って行くと、歩きづらくなりますよ。その感情って本当に必要なものですか?」

このことは道を歩きながら何度も噛み締めましたね。

道中一緒になった人に、高校を卒業してからトヨタの工場で40年以上勤め上げた、当時60代半ばの日本人のおじさんがいました。彼がふと「こうやって歩いていると、何がいらんものかよく分かるね」ってポロって言っていたんですよね。

一つ一つが暗喩という感じがするんですよね。必要でない感情を持っていると、なんか辛くなってくるんですよね。だけど軽やかに生きていると、スムーズにいける感覚があります。僕にとっては国連を離れて資格試験に取りかかる前にそういう経験ができたことはほんとうに良かったですね。だから学生に少しずつ話していけたらと思っています。

世界のリアルに肌で触れてもらいたい

学生には「巡礼の道」での体験を、単なる個人体験として話すと四方山話で終わってしまいますので、そうならないように気をつけたいと思っています。学生には一歩踏み出して、肌で世界を掴んでいって欲しい。「自分と世界」と考えるのではなく、「自分はその世界に組み入られている」という感じを写真など見せながら話ができたらなと思っています。

巡礼の道は風景は素晴らしいし、文化的・歴史的にも厚みがあります。でも同時に「いま隣にいる人がどういう思いでいるのか」を感じることが重要だと思います。少し仲良くなると共有できることも多いんですよね。そういうことを自分で体験することが大事だと思うんですよね。世界のリアルに肌で触れてもらいたい。

自分はずっと学問の世界で来た経歴ではないですし、実務の世界でも紆余曲折を経てきました。プライベートでも何ヶ月もヨーロッパをフラフラ歩いていたり、まねはしない方がいいかもしれません。それでも、そういう遍歴を学生と共有していくっていうことが自分のできることじゃないかなと思っています。
(2016年4月 聞き手:橋口博幸 [ 2023年10月更新 ] )

田辺 圭一
Tanabe Keiichi
准教授 国際関係学修士
研究テーマ:内戦の要因分析、国内紛争後ガバナンス
専門分野:平和構築、人間の安全保障、国際開発論

教員・研究者一覧

  • アルモーメン アブドーラ

    Al-Moamen Abdalla
    教授 日本語日本文学博士
    研究テーマ異文化コミュニケーション(日本とアラブ)、翻訳通訳の諸課題
    専門分野言語文化学、翻訳通訳&対照言語学
  • 荒木 圭子

    Araki Keiko
    教授 法学博士
    研究テーマアフリカ(系)人の脱国家的連帯
    専門分野アフリカ研究、アフリカン・ディアスポラ研究
  • 内川 明佳

    Uchikawa Sayaka
    准教授 応用人類学博士
    研究テーマ子どもの労働、教育開発、外国人住民の暮らしと子育て、支援
    専門分野教育人類学、文化人類学
  • 小貫 大輔

    Onuki Daisuke
    教授 教育学修士、ソーシャルワーク修士
    研究テーマ海外にルーツを持つ子どもたちの教育
    専門分野国際協力、ブラジル研究、性教育、性と生殖の健康・権利
  • 小山 晶子

    Oyama Seiko
    教授 政治学博士
    研究テーマ移民と社会統合
    専門分野EU研究、政治社会学
  • 金 慶珠

    Kim Kyŏngchu
    教授 言語学博士
    研究テーマ朝鮮半島と日本
    専門分野社会言語学、メディア論
  • 貴家 勝宏

    Sasuga Katsuhiro
    教授 国際学博士
    研究テーマグローバリゼーションと経済地域統合
    専門分野国際政治経済学
  • タギザーデ ヘサーリ ファルハード

    Farhad Taghizadeh-Hesary
    准教授 経済学博士
    研究テーマエネルギー政策、エネルギー経済学、グリーンファイナンス、マクロ経済学、日本・アジア経済学
    専門分野経済学
  • 田辺 圭一

    Tanabe Keiichi
    准教授 国際関係学修士
    研究テーマ内戦の要因分析、国内紛争後ガバナンス
    専門分野平和構築、人間の安全保障、国際開発論
  • ファーデン マルガリット

    FADEN Margalit
    准教授 法務博士
    研究テーマ国境を越える法律的な課題
    専門分野国際法・国際私法、異文化間コミュニケーション
  • 吉川 直人

    Yoshikawa Naoto
    教授 政治学博士
    研究テーマ持続可能な社会と経済システム
    専門分野国際開発理論・国際関係論
  • 和田 龍太

    Wada Ryuta
    准教授 博士(国際政治経済学)
    研究テーマアメリカ・イギリス外交史
    専門分野国際関係論、国際安全保障論、国際関係史
  • 李 優大

    Ri Yudai
    講師 法学修士
    研究テーマロシア・中東関係
    専門分野ソ連・イラン関係、ロシア外交史、中央アジア近現代史、国際公法
  • 田中エリス 伸枝

    Tanaka-Ellis Nobue
    准教授 応用言語学博士
    研究テーマテクノロジーと教育環境、リーダーシップ、言語教育と権力
    専門分野コンピュータ支援言語教育、異文化コミュニケーション
  • 衛藤 安奈

    Eto Anna
    准教授 法学博士
    研究テーマ中国の近代化
    専門分野中国近現代史
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